渋沢栄一とガス事業 -「公益追求」実践の軌跡-
近代日本経済の父とも称される渋沢栄一は、明治7年(1874)、34歳の若き頃から、古希を迎えて第一線を退いた明治42年(1909)までの35年間にわたり、東京のガス事業を主導していました。
そして、常に公益追求の信念を貫きながら、民間の力としてガス事業を成長させることで、都市の経済と暮らしの繁栄を下支えし、近代都市東京の発展に大きく貢献しました。
本コーナーでは、4つのエピソードを中心に、渋沢栄一の公益追求への思いと、ガス事業を通じた実践の軌跡を当時の貴重な資料とともにご紹介します。
プロローグ
渋沢栄一 パリでガスと出会う
近代日本経済の父とも称される渋沢栄一は、明治7年(1874)、34歳の若き頃から、古希を迎えて第一線を退いた明治42年(1909)までの35年間にわたり、東京のガス事業を主導していました。
そして、常に公益追求の信念を貫きながら、民間の力としてガス事業を成長させることで、都市の経済と暮らしの繁栄を下支えし、近代都市東京の発展に大きく貢献しました。
本コーナーでは、4つのエピソードを中心に、渋沢栄一の公益追求への思いと、ガス事業を通じた実践の軌跡を当時の貴重な資料とともにご紹介します。
慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜の弟の徳川昭武のパリ万博使節団の一人として、27歳の渋沢栄一はヨーロッパヘ渡りました。
幕府が崩壊して急遽帰国となった翌年まで、徳川昭武の欧州各国訪問に同行し、さまざまな欧州の先端技術、社会組織や経済制度に接したことが、その後の栄一の行動に大きな影響を与えることとなります。
そして、栄一とガス事業との出会いは、パリのコンコルド広場でした。近代都市の象徴として、広場を明るく輝かせていたガス灯に、栄一は深く感銘を受けました。さらに、街路の地下の共同溝にも潜るなど、都市インフラであるガス供給の仕組みについても注目していました。
Episode エピソード1「夜を明るく」
東京の街に文明開化の明かりを灯すガス灯事業の創生
明治5年(1872)、日本で初めてのガス事業が高島嘉右衛門とフランス人技術者アンリ・プレグランによって横浜で興りました。翌年、高島嘉右衛門が東京府にガス灯建設を申し出たことを契機に、東京でのガス事業計画が本格化していきます。
欧州から帰国後、4年間務めた大蔵官僚を辞して明治6年(1873)に民間の立場となった渋沢栄一は、第一国立銀行をはじめ生涯で500社を超えるさまざまな事業の設立育成に関わりました。その中の一つが、明治7年(1874)11月に栄一が取締として就任し、翌年会頭となる、東京会議所です。
東京会議所は、江戸の町会で積み立ててきた資金を管理する役所から独立した団体です。明治になると、その資金で道路整備や東京のガス灯設置などの都市整備事業や、福祉や商業教育などを運営し、東京の公益事業を担っていました。
そして、明治7年(1874)12月18日東京で初めて、金杉橋から芝、銀座を経て京橋まで85基のガス灯がともりました。その後、明治10年(1877)頃にかけて356基のガス灯が東京の街を明るく照らしました。
栄一は、東京のガス事業開業直前の時期から関わることになりましたが、後に東京会議所が解散し、ガス事業が明治9年(1876)5月に東京府に引き継がれると、東京府瓦斯局長として引き続きガス事業の運営を主導しました。