ガスミュージアムブログ
東京の街~くらべる探検隊~ 第15回「日本橋」
今回のくらべる探検隊は、「日本橋」を訪ねてみたいと思います。
皆さんは「日本橋」というと何をイメージされますか?
五街道の起点?老舗が並んでいる?オフィス街?などでしょうか?
橋のイメージより、日本橋エリアをイメージされると思います。
今回は日本橋という、「橋」に注目してみたいと思います。
日本橋は、東京都中央区の日本橋川に架かる橋です。
こちらが現在の日本橋です。日本橋は石造りで素敵なデザインの橋ですね~。
しかし、橋の上には高速道路があって、暗い雰囲気になっています。。。
日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられ、
当初の橋は橋面が丸く沿った木製の太鼓橋であったと言われています。
その後、日本橋は五街道の起点として江戸時代に何度も架け替えられました。
明治維新後の明治6年(1873)に馬車をはじめとした車の通行を考慮して橋面を平らにするため、西洋の技術を導入した木製のトラス構造の橋に架け替えられます。
こちらは明治期の日本橋が描かれた錦絵です。
橋材には、材質が硬くて摩耗に強く腐朽しにくいケヤキ材が用いられ、四隅には石造りの親柱が立っていました。
明治7年(1874)12月には、車道と人道を分ける工事が行われ、明治8年(1875)3月にはガス灯も設置されて、橋の上を明るく照らし、
夜でも橋の往来がしやすくなりました。
こちらが当時の夜の様子を描いた作品です。どちらの絵も、ガス灯が暗い夜を明るく照らしている様子がわかります。
現在と比べると、まだまだ暗いと思いますが、夜でもこれだけ多くの人や馬車が往来しています。
当時の人々にとっては、とても明るく感じられたのではないでしょうか?
その後、明治44年(1911)に、現在の石造りの橋に架け替えられます。
20代目の日本橋です。
市区改正が進み、洋風建築により街並みが変わりつつあった当時において、江戸趣味的な橋ではなく、「帝都」を象徴するにふさわしいデザインであること、橋梁としての実用性が求められたことなど様々な議論が行われた結果、採用されたのがルネサンス式(円柱やアーチなど古代ローマ時代の建築を模範とし、調和と均整を重視した建築様式)石造アーチ橋でした。
石材を用いることで、これまでの木橋のように腐朽の心配のない不朽性を実現し、美観と耐久性を兼ねそろえたアーチはまさに帝都の顔としてふさわしいものでした。
設計は、東京市技師の米元晋一と樺島正義が担当しました。
和洋折衷のデザインで、全体のデザインや装飾は建築家・妻木頼黄(つまきよりなか)によるものです。
麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像は意匠的価値の高い芸術作品と言えます。
装飾部には全て青銅が使われ、橋中央の装飾台には高さ約7.6m、平均約60㎝角の柱を立て、その上部に5個のランプが取り付けられました。
柱座の左右には高さ1.8mの麒麟が配されます。麒麟は想像上の生き物で、吉兆を呼び泰平の世に現れるといわれており架設を記念し、採用されたそうです。
この麒麟については、全くの想像上の生き物のため、参考となる作品に乏しかったことから、体の部分ごとに異なる作品を参考にして作製したとのこと。
また、日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られない羽を付けることを決めましたが、翼と背びれを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用したそうです。
日本橋から飛び立つイメージ、夢とロマンを感じるさせる麒麟像ですね~♪
尚、親柱に記された橋名の揮毫(きごう)は、第15代将軍・徳川慶喜の筆によるものだそうです。貴重ですね!
さて、日本橋には3つの試練があったと考えられます。
一つ目は、関東大震災です。地震とその後に発生した火災は日本橋一帯を焼きつくし、
橋の北詰に広がる魚市場は全壊しました。
しかし、日本橋は地震に対してびくともせず、周辺からの火災で欄干と装飾部分に多少損傷を被っただけでした。
こちらは、関東大震災後の日本橋の様子を描いた作品です。
電柱は傾き電線も落ち、建物は崩れ悲惨な状況が伝わってきます。
そんな中でも日本橋の装飾部分の獅子が守り神のように、橋が壊れないように踏ん張ってくれているように見えます。
そして、震災復興が進み、昭和初期の日本橋付近には様々な建物が立ち並ぶようになります。
こちらも同じ昭和初期に描かれた版画です。
日本橋が雨に濡れる様子が繊細に描かれている作品です。
中央に描かれている電灯のデザインは、現在のものと変わらないですね。
そして、2つ目の試練は太平洋戦争です。金属回収により、装飾部分(獅子と麒麟)が撤去されました。
幸い溶解されることなく元に戻されましたが、ひれ等に損傷を受けます。
また、東京大空襲では、数十発におよぶ焼夷弾が被弾し、その弾痕が今も橋上に残っているそうです。
3つ目の試練は、日本橋の上空に高速道路が出来たことにより、それまでの景観が失われたことと考えられます。
関東大震災や太平洋戦争後からの復興とともに、自動車が普及していきます。
特に昭和30年代の高度成長期にはモータリゼーションが急速に進みます。
さらに、昭和39年(1964)に開催されたオリンピック東京大会は、東京の様子を一変させる要因になりました。
自動車交通をを中心とした道路整備が行われ、首都高速道路の建設が始まります。
昭和37年(1962)に京橋~芝浦間、翌38年(1963)に本町~京橋間、芝浦~鈴ヶ森間、江戸橋~呉服橋間がつくられました。
この時に、日本橋上空にも高速道路が架けられることとなりました。
現在、日本橋北詰西側には、明治44年東京市が設置した「東京市道路元標」の柱が移設されています。
明治44年(1911)に石造りの日本橋が架けられた際、立派な柱型の「東京市道路元標」が、道路の中央に建てられました。
その後、大正9年の道路法に基づき、日本の国道の起点は日本橋であることが明記されました。
東京市道路元標は、昭和47年(1972)に都電廃止後の道路整備の際に、日本橋の北詰西側へ移設され保存され、現在は国の重要文化財に指定されています。
もともと東京市道路元標が建っていた、国道の起点である道路の中央には、昭和47年の移設の際に50㎝角の「日本国道路元標」が埋め込まれました。そのレプリカが、橋の北詰西側に移した東京市道路元標の左脇に置かれていて、間近に見ることができます。
ちなみに、この日本国道路元標の文字は、当時の総理大臣であった佐藤栄作の筆によるものです。
このように3つの試練に耐えてきた石造りの日本橋ですが、
明治44年(1911)の架橋から100年以上経ちますが、現在も変わらずに街のシンボルとして生き続けています。
日本橋川周辺は、国家戦略特区の都市再生プロジェクトに位置付けられ、多くの再開発計画が立ち上がり、新しいまちづくりが始まっています。
日本橋川上空に架かり、開通から60年が経つ首都高では、2040年度の完成を目指してリニューアル工事が始まりました。
日本橋上空の高速道路は、地下化されることになり、再び日本橋の上空に青空が戻ってきます!
少し先になりますが、その日を楽しみに待ちたいと思います。
次はどこに行きましょうか?お楽しみに!
くらべる探検隊1号 T.Y
<参考資料>
・中央区立郷土天文館 第12回特別展「日本橋」 中央区教育委員会発行
・首都高速道路株式会社HP
・東京都公文書館HP
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