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東京の街~くらべる探検隊~ 第16回「同潤会青山アパートと表参道」

テーマ:     公開日:2023年08月08日

皆さんは、東京都内に「マンション」がどのくらいにあると思いますか。

住戸数でみると約354万戸。なんと東京都の住宅全体の52%を占めています。*
現在、東京では半数以上の住まいが分譲や賃貸のマンションなのですね。

*平成30年『住宅・土地統計調査』鉄筋・鉄骨コンクリート造共同住宅戸数(東京都)

まさに都市の住まいのスタンダードとなった鉄筋コンクリート造のマンションですが、そのルーツが東京を代表するおしゃれな街「表参道」にあることをご存じですか。

それが「同潤会青山アパート」なのです。
今回のくらべる探検隊は、表参道のシンボルとして歴史の記憶に残る、同潤会青山アパート(以下、青山アパート)の地を探訪します。

同潤会青山アパートの跡地に建つ「表参道ヒルズ」

今からちょうど100年前、大正12年(1923)9月1日に東京や横浜の街に壊滅的な被害を与えた関東大震災。
死者・行方不明者は10万5千人余、東京の街は、東側を中心に市域の約4割が焼失、推定100万人の避難者が出たといわれています。

その復興のため、全国や世界各地から集まった義援金1,000万円を原資に、翌大正13年(1924)5月に、内閣府により財団法人「同潤会」が設立されます。
同潤会は、震災による悲惨な罹災者のための住まい、ならびに社会福祉施設の建設と運営を目的としていました。初代会長は内務大臣水野錬太郎が就任し、評議員や理事には当時の都市計画や、耐震、耐火建築技術の第一人者が名を連ね、精力的な活動を開始しました。

組織の名称の由来は、中国古典の一節「沐同江海之潤」(沐(もく)して江海の潤を同じくする)からで、生命の源である川や海の水が広く人々を潤す、すなわち罹災した人々の心身の救済を目指す、という強い思いが込められていました。

同潤会は、焼け出された人々の当面の収容先となる仮住宅を皮切りに、郊外の木造戸建住宅と都市型の集合住宅を建設していきます。

なかでも画期的な取り組みが、日本初の鉄筋コンクリート造により建設された集合住宅「同潤会アパート」でした。

同潤会アパートは、昭和9年(1934)までに東京と横浜に計16ヶ所建設されました。
その最初のアパートが「同潤会青山アパート」です。
青山アパートは、関東大震災からちょうど3年後の大正15年(1926)9月1日、中之郷アパート(現墨田区押上)とともに、入居貸付を開始しました。

当時最先端の技術であった鉄筋コンクリート構造を採用し、電気・ガス・上下水道を完備することで、地震や火災に強く、清潔で快適な居住空間を実現した同潤会アパート。
前例のない斬新な都市の住まいを、震災からわずか3年間という短期間で創りあげ、世に送り出したのです。

同潤会青山アパート外観  昭和11年(1936)

同潤会のアパートは、洋風のモダンな外観が特徴的でしたが、日本人の生活スタイルに適応するため、靴を脱いであがる玄関を構え、部屋は続き間の間取り形式が採用されています。居室の床材はコルクのうえに畳表を敷いており、和風の暮らし方でも、当時人気がでていた昭和モダンな洋風でも暮らせるように工夫されていました。
まさに和魂洋才ですね。

青山アパート 靴を脱いで上がる住戸玄関

青山アパート 住戸内の続き間の様子

青山アパート A号棟 一階住戸平面図

関東大震災で被災した人々にとって、同潤会アパートは、まさに驚きと憧れをもって受け止められました。

青山アパートの建設地は、明治天皇を祀って大正9年(1920)に創建された明治神宮の表参道のちょうど中ほどに位置していました。全長1㎞の表参道の約1/4の長さである250mに渡って、敷地が参道に面しています。
震災復興住宅にもかかわらず、表参道の景観の核となるように青山アパートは計画されていたことがわかります。このことからも、震災復興において同潤会アパートに託した想いの強さが伺えます。

表参道は、大正15年(1926)9月14日に日本初の風致地区の指定を受けた場所であり、明治神宮の荘厳な印象を損なわないよう、様々な配慮のもとに作られた特別な参道でした。
通りの軸線は、冬至の日に明治神宮側からみると表参道の中央に朝日が昇るように設定されています。また、今から100年以上も前、参道の建設時からすでに電線が地中化されていました。

表参道 明治神宮方面を望む

そのような場所に震災復興のための集合住宅を配置したのですから、同潤会アパートが、震災禍を乗り越えていく新しい都市の象徴として、とても重要な存在であったことがわかります。

しかし、すんなりと建設が決まったわけではありませんでした。
建設に際し、当時近隣に居を構えていた貴族院議員長の長岡外史将軍から、建設反対の申し入れを受けていました。「前面道路は神宮表参道であり、天皇もしばしば通られる。よって上から見下すことのできる建物をつくれば不敬に値する。」との主張でした。
同潤会の職員が熱心に説得した結果、建設にこぎつけることができましたが、美観上、洗濯物は住戸には干さず屋上に干すことにするとともに、通りから見えないように屋上の側壁を高くするなどの配慮がされました。

青山アパート屋上 昭和2年(1927) 共同洗濯場と物干し場が設けられ側壁が高くなっている

建物外観にも高さや意匠に細心の配慮が施され、デザイン的に秀逸な設計となっています。建物の高さを3階建てに統一してスカイラインをそろえたうえ、外観が美しく見えるように、窓台やひさし、手すりなども水平ラインの陰影を強調する形状になっています。また、建物と通りの間に緩衝帯として植栽を施し、表参道の緑と建物が調和するように計画されました。

デザイン面での同潤会のこだわりの一端が表れている部材があります。共用階段の踊り場にある手すりです。水平ラインを強調するため、高さを低く抑えて横桟を通して、建物の外観を意識していることがわかります。

実は、これは現代の建物では使えない形状なのです。現在の建築法規では、手すりの高さが1.1m以上、幼児などが容易によじ登ったりできない形状にしなければいけません。手すりの桟も垂直にして、間隔を11㎝以下にすることが求められています。

青山アパートが建っていた場所は再開発され、現在は、平成18年(2006)にオープンした「表参道ヒルズ」になっています。建築家安藤忠雄が設計を手がけた表参道ヒルズは、同潤会青山アパートの再開発として、その記憶を継承しつつ生まれた複合商業施設なのです。

その東端に青山アパートの建物を忠実に再生した「同潤館」があります。

表参道ヒルズ 右手の黄褐色の建物が「同潤館」

そこで再生された階段の手すりをみると、同潤会のオリジナルデザインである水平ラインを強調した手すりを設置したうえで、その内側に透明ガラスをはめ込んだ手すりが、もうひとつ取り付けられています。現在の建築基準で安全上必要な高さと形状を保つための手すりです。

同潤館外観 階段室や窓台の手すりなど同潤会当時の部材を利用して忠実に再現している

オリジナル部材を設置するために、手すりが2重になっている

このようないきさつから、居住者も美観への意識が高く、時代を超えて建物の景観が守られ、居住者相互の伝統となっていきました。
青山アパートは、戦後、昭和28年(1953)に居住者に分譲にて払い下げられますが、その直後から居住者により組合が結成され、居住者が自主的に居住規約を取り決めています。例えば「増築は窓枠の外におよんではいけない」といったルールを作り、景観を保全していきました。
日本で最初の民間分譲マンションが登場するのは昭和31年(1956)ですから、管理組合とか管理規約というひな型が、まだ無い時代です。青山アパートは、景観に対する居住者の取り組みも、とても先駆的だったのです。

平成15年(2003)に解体されるまで80年間、日本を代表する美しい通り表参道のシンボルとして存在し続けた青山アパート。その姿は、同潤会当時の思いが込められた意匠と、それを伝統として育んでいった居住者の手により、醸し出されていたのですね。

第二次大戦後の昭和21年(1946)、明治神宮に隣接していた旧陸軍練兵場が、占領下の米空軍およびその家族の居留地「ワシントンハイツ」となり、表参道には「キディランド」をはじめとするアメリカ人向けの商業施設が建ち始めます。
その後ワシントンハイツは、昭和39年(1964)の東京オリンピックにあわせて返還され、選手村となって世界中から注目されたこともあり、表参道一帯は国際色豊かな街となっていきます。

青山アパ-トの居住規約では、住居以外の目的での使用を禁止していましたが、一等地ゆえ時の流れには逆らえず、表参道に面した住棟に少しずつ店舗が入りはじめました。
規約違反として問題になりつつも、看板を掲げないという協定を取り決めるなど柔軟に対応して、景観を相互に保全する伝統は維持されていきました。

昭和52年(1977)から始まった表参道の歩行者天国の頃には、表参道に面した住棟は、多くの住戸がお洒落な店舗になっていました。風合いを深め、ツタの絡まる建物に、看板や増築がなく、窓から見えるお店がピクチャーのように収まる景観は、まるでヨーロッパの古い町並みのようだ、とも形容されていました。

歩行者天国の表参道と青山アパート 昭和58年(1983)

平成15年(2003)解体直前の青山アパート 最後まで景観が保たれていた

平成15年(2003)、青山アパートは建物老朽化により、80年の歴史に終止符を打ちました。跡地は、表参道ヒルズへと生まれ変わりました。

設計を手がけた建築家安藤忠雄のコメントが、表参道ヒルズのホームページで紹介されています。

「関東大震災後、復興計画の一環として建設された同潤会アパートは、すぐれた集住計画で知られる貴重な建築だが、それ以上に重要なのは、アパートのつくり出す風景が、人々の心の風景となっていることだ。この風景をどのような形で〈残していくか〉が、今回の建替え計画の主題のひとつとなった。
現状のままでの修復は物理的、経済的に不可能であるが、都市の記憶をつなぐ手がかりとして、以下の2点を考えた。一つは、地下空間を最大限にいかし建物ヴォリュームの過半を埋設して、建物の高さをケヤキの並木と同限度に低く抑えること、もう一つは、表参道の穏やかな坂道をそのまま建物内のパブリックスペースとして取り入れること。建物は表参道の道なりに、約250メートルの連続したファサードをつくりだす。各フロアは穏やかな勾配の表参道から連続するスロープで構成され、都市空間に新しい公的空間を寄与する。また建物の屋上には、道なりのケヤキ並木とつながるような形で屋上植栽を考えている。目指すのは、表参道の同潤会アパートの、次の時代への『再生』である。」

引用:表参道ヒルズHP
https://www.omotesandohills.com/information/about/architect.html

表参道ヒルズ外観 令和5年(2023)

表参道ヒルズ内部 令和5年(2023)

震災復興において、新しい時代の都市の住まいを創りだしてきた同潤会青山アパート。
今も多くの人々の心象風景として、記憶に残っています。
皆さんが表参道にいかれたときにはぜひ、100年前の青山アパートの姿を思い起こして、タイムトラベルしてみてください。

青山アパートA号棟入口 昭和2年(1927)

くらべる探検隊2号 Y.A.

 

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