ガスミュージアムブログ
ガス灯を探しに行こう! 第12回 ~歴史の記憶と新たな息吹きをつむぐ~ 芝浦のガス灯<後編>
今回のガス灯を探しに行こう!は、「芝浦のガス灯」<後編>です。
芝浦は、今、都内で最も新しく、そして最も多くのガス灯が灯っている街。
そしてこの街は、ガス事業発展の歴史と深い関りのある場所でもあります。歴史をひも解きながら、この街になぜガス灯が立つのか、その背景をご紹介します。
<前編>では、江戸から明治にかけての風光明媚な景勝地としての芝浦のヒストリーをご紹介しました。
そして、<後編>では、明治40年代以降、近代都市東京における産業の要として発展した新しい街、芝浦の姿に迫ります。
芝浦が、現在のような港湾都市の姿に大きく変わっていくきっかけとなったのは、明治後期にはじまった東京港の港湾整備計画からですが、すでに明治初期から中頃にかけて、現在の浜松町駅の南にある金杉橋周辺の芝浦北側一帯には、近代的な産業を担う工場が立地していました。
その先駆けが瓦斯(ガス)製造所でした。芝濱崎町の元丹羽藩邸跡三千四百坪の貸下げを得て瓦斯製造所は建設され、明治7(1874)年に操業を開始しました。そこから供給されたガスは、同年11月、銀座通りに東京で初めてのガス灯を灯し、近代都市東京の表玄関を輝かせます。その後、明治9(1876)年からの東京府瓦斯局時代を経て、明治18(1885)年に民営化され、東京瓦斯会社(現東京ガス)芝製造所となります。
また、からくり義衛門として江戸時代末期から広く名が知られていた発明家の田中久重が、明治8(1875)年に創業した田中製造所(現東芝)も、明治15(1882)年に、芝濱崎町の南側、芝金杉新濱町に、三千坪の敷地を持つ新工場を建設して移転してきます。
明治26(1893)年に、社名を芝浦製作所と改め、「芝浦」の冠を掲げると、明治37(1904)年には、日本を代表する重電メーカーの源流となる、株式会社芝浦製作所となりました。その後、昭和14(1939)年に、芝浦製作所はエレクトロ二クス分野で成長をとげた東京電気と合併し、日本を代表する総合電機メーカー、東京芝浦電気株式会社となります。
このように、明治の頃の芝浦付近は、<前編>でご紹介したような風光明媚な景勝地としての顔とともに、近代産業を担う都心隣接の工業地としての側面も併せ持っていたのでした。
そして、東京港への大型船の入港を可能にするために、明治39(1906)年からはじまった隅田川河口改良工事が、さらに芝浦を変貌させていく端緒となりました。
この改良工事による東京港の浚渫(しゅんせつ)によって生じた土砂を利用して、明治40年代に芝浦の沖合埋め立てが進みます。明治44(1911)年には、埋立地に鉄道駅、田町駅も開業し、大正のはじめには、現在の芝浦1丁目から4丁目のエリアまでの新たな湾岸の土地が生まれました。
そしてその新たな土地には、新たな工場が建設されていきます。
その代表格が柳瀬商会、現在の輸入車販売大手のヤナセです。
大正4(1915)年5月に、三井物産から米国の自動車「キャデラック」、「ビュイック」の販売権を譲り受け、柳瀬長太郎が梁瀬商会を設立します。
当時最先端であった自動車販売事業は急成長を遂げ、大正9(1920)年、柳瀬自動車株式会社を設立するとともに、事業拡大のために芝浦の埋立地に一万五千坪の土地を賃借し、新工場を稼働させました。
以来、100年以上にわたりヤナセは、芝浦を代表する企業となっています。
また、東京の都市の発展で需要が拡大したガスの生産を担う新たな工場として、東京瓦斯会社「芝第二製造所」が、明治45(1912)年、芝浦の埋め立て地で稼働します。その後、大正3(1914)年に「芝製造所」に名称変更され、都心部のガス需要を担う中核工場となります。
このように芝浦は、電機、自動車、ガスエネルギーなど、大正から昭和にかけて東京の経済発展をけん引する産業の街として活況を呈していきます。
これらの芝浦の工場群は東海道線の線路に面していましたので、その威容が車窓から見え、上京してくる人を迎える東京の新たな顔となりました。
今でも、JR東海道新幹線や東海道線、山手線、京浜東北線が通る線路に接して、ヤナセ、東芝、東京ガスの建物が建つ風景が望めます。芝浦とともに発展した企業が、ショールームや本社ビルに姿を変えつつも、今でも立地していることがわかります。
芝浦で操業していた東京瓦斯の芝製造所は、第二次世界大戦時まで東京のエネルギー供給を支えていました。
そして、終戦後の昭和30(1955)年に、豊洲ふ頭に最新鋭のガス工場が建設されたのを期に、工場としての役目を終え、その跡地は、都市ガスの最先端の技術開発を担う「東京ガス総合研究所」として生まれ変わります。
芝浦の東京ガス総合研究所からは、風呂給湯器や温水床暖房、コンロをはじめとする、暮らしを豊かにする新たなガス機器が生まれていきました。
平成に入って横浜に新たなガスの研究開発の拠点ができ、芝浦は研究所としての役目を終えますが、この研究所の土地は、芝浦のシンボル的な存在として市民にも知られる場所となっていました。
その記憶は、芝浦の街を灯す「ガス灯」という形で継承されていきます。
東京ガス総合研究所のすぐ裏手にあたる「新芝運河」沿いは、港区により平成元(1989)年に緑地と遊歩道がつくられます。護岸の遊歩道には20灯のガス灯が整備され、水面にガス灯の温かな光がゆらぐ美しい遊歩道空間が生まれました。
この「新芝運河沿緑地」は、平成13(2001)年に、国土交通大臣表彰「手づくり郷土(ふるさと)賞」も受賞しています。
そして、東京ガス総合研究所の跡地は、平成19(2007)年に港区が策定した「田町駅東口北地区街づくりビジョン」に基づいて再開発が行われていきます。
平成28(2016)年には、ちょうど研究所があった場所に「芝浦公園」が整備され、市民の憩いの場所として生まれ変わりました。
この芝浦公園の計画にあたって、地元の方々が参加したワークショップで「土地の歴史を残すために、公園に『ガス灯』を設置しよう」というアイデアが出ます。そしてその意見を取り入れる形で、8灯のガス灯が公園に設置されたのでした。
新芝運河沿いの街路をはさんだ愛育病院の並びの歩道にも、ガス灯が3灯立っています。
高級輸入車「キャデラック」のショールームの前にガス灯が立つ姿は、大正時代からの芝浦を代表した自動車産業と瓦斯という、歴史の潮流が交錯している光景だったのですね。
このように、芝浦公園一帯の街が完成したことで、この付近に立つガス灯群は、すべて合わせると31灯を数えるほどになりました。
公園や通りの街路樹の緑を背景に、新しい街とガス灯の温かな光が織りなす風景は、東京屈指のガス灯ビュースポットです。
現在の芝浦は、湾岸都心のシンボルであるタワーマンションや最新の超高層オフィスビル等がそびえる東京最先端の街。そんな街の歴史の記憶を静かに灯すのが、この街にあるガス灯だったのですね。
田町駅東口の駅前に建ったオフィスビル「msbTamachi(ムスブ田町)」は、ラグジュアリーホテルやブックストア、スーパーマーケット、保育園、ジムなど、多彩な施設が入る最先端のオフィスで、まさに芝浦の新時代を象徴するシンボルです。その足元に立つガス灯とのコントラストもきれいですね。
歴史の記憶と新たな街の息吹きをつむぐ、芝浦のガス灯。
ぜひ皆さんも探訪してみてください。晴れた日の夕暮れ時が、おススメですよ♪
担当【Y.A】
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