ガスミュージアムブログ
東京の街~くらべる探検隊~ 第11回 銀座通り(新橋~銀座5丁目編)
もうすぐゴールデンウィークですね♪気候も暖かくなり、どこかにお出かけしたくなりますね。
さて、今回は銀座通りPartⅡということで、新橋から銀座5丁目まで行ってみたいと思います。
銀座通りは、第9回で「京橋から銀座4丁目」までをご紹介しました。
https://www.gasmuseum.jp/blog/20211217_2/
今回は、新橋からスタートしたいと思います。
まずは、「旧新橋停車場」に行ってみましょう♪
日本初の鉄道「新橋駅」の遺構の地に平成15年(2003)に開設された資料館です。
JR新橋駅からすぐ、近代的な汐留のビル群に囲まれた中に、ひっそりと建っています。
文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、大正12年(1923)の関東大震災で火災のため焼失しました。遺構が良好な状態で発掘されたので、現地に埋め戻し、復元駅舎をその直上に建設しています。
新橋・横浜間に鉄道が開業したのは、明治5年(1872)9月12日(新暦10月14日)です。今年で150周年になります。「新橋ステーション」とハイカラな呼称で親しまれました。横浜から外国の文物、制度、習慣が機関車に乗ってやってきたといってもよいでしょう。まさに東京における西洋文化流入の玄関口でした。
明治のころの様子を見てみましょう!
どちらの作品も新橋の駅舎前広場の夜景を描いています。
葛西虎次郎の作品は、当時街中で見られたさまざまな明かりが一同に描かれています。夜空には自然光である月光が、広場中央には二燈立てのガス燈、左端の人力車の脇にはアーク燈、人力車夫の足下に提灯、馬車の馭者席脇には石油ランプによる照明灯が灯り、人々の灯りの利用方法を見ることができます。とても楽しい作品ですね。
こちらは、明治後期の写真になります。
今から150年前の明治5年(1872)は、現在の私たちの暮らしに関わる、さまざまな文明開化を象徴する文物が次々と登場した年でした。その一つが、鉄道で、同年9月29日(新暦10月31日)に事業を開始したガス事業とともに今年で150周年になります。
そこで、ガスミュージアムでは今週末4月29日から「鉄道と駅」展を開催いたします。
https://www.gasmuseum.jp/gallery/
ガス事業とともに150周年を迎える文明開化の象徴、「鉄道」と「駅」にスポットをあて、開化文物が街に伝わった当時の様子を錦絵や史料からご紹介します。
開業当時の横浜駅や新橋駅の威風堂々たる景観や、煙をたなびかせた機関車が旅客や貨物満載で疾走する光景などをお楽しみください。
さて、銀座方面に歩いて行きましょう。
すると、博品館TOYPARKが見えてきます。
博品館は、大人も子供も楽しめる玩具がそろっているお店です。
明治32年(1899)創業で、前身は、「帝国博品館勧工場」。博品館の名前は、明治から昭和の初めまで「博品館勧工場」という銀座の名物として親しまれていました。他の勧工場(*)がみな二階建てであったのに対し、博品館は三階建てに時計塔までついた大きな建物で、上り下りは普通の階段ではなく螺旋状の通路をめぐり歩く構造でした。
*勧工場とは、百貨店、マーケットの前身。明治11年1月、第一回内国勧業博覧会の残品処分のため、東京府が丸の内に竜の口勧工場を開場した時に始まりました。
その時、日本で初めて「百貨店」ということばを使い、「百貨店」という新しいことばは博品館によって作られたと言われています。関東大震災後は百貨店営業を断念しておりましたが、創業80周年を記念して、1978年(昭和53年)10月、現在の10階建てのビルを新築しました。1階から4階までを物販、5階から7階をレストラン、8階から10階を「博品館劇場」としました。
では、明治のころの博品館の様子を見てみましょう!
新橋橋際角地に建ち、煉瓦づくり3階建ての正面向かって屋上左端にモダンなモスク風の鐘塔付きの時計塔が設置されています。
この時計台の建築は、4丁目の服部時計店の設計と同じ建築技師伊藤為吉氏によるもので、東京名所にたびたび紹介された斬新な名物建築だったそうです。
近くには、汐留川が流れていて、橋(新橋)も架かっていますね。
こちらは当時の写真になります。
同じような構図で現在の様子を撮影してみました。
残念ながら、博品館のビルが高速道路に遮られ、良く見えませんね。
近くには新橋の親柱がありました。
説明書きによりますと、
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新橋親柱は、新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和38年(1963)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正14年(1925)に、長さ20m、幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。
平成30年(2018)1月15日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会
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「新橋」という地名の由来にもなっているのですね。
少し歩いた8丁目付近には「資生堂パーラー」がありました!
素敵ですね。中に入るにはちょっと勇気がいるハイクラスな雰囲気です。
平成13年(2001)3月、旧資生堂パーラービル跡地にスペインの世界的建築家、リカルド・ポフィル氏の設計により、東京資生堂ビルを竣工しました。食と文化の発信基地として「銀座の灯台」を名乗り、スタートしました。かつての銀座煉瓦街をイメージした色合いの外観は銀座のシンボル的存在となっています。
資生堂は、明治5年(1872)、福原有信によって出雲町(現・銀座8丁目)に日本初の民間洋風調剤薬局として創業しました。
明治35年(1902)、東京銀座の資生堂薬局内にソーダ水やアイスクリームの製造や販売をおこなう「ソーダファウンテン」が開設されました。これが後に、飲食業として「資生堂パーラー」に発展することとなります。
こちらが、明治39年ごろの資生堂(出雲町)の様子です。
資生堂創業者の福原有信がアメリカに赴いた際、薬局の一角で軽食や飲み物を販売しているのを見て、その形態を真似して始めたそうです。ぜひ、次回はお店に入って伝統的な「アイスクリームソーダ」を注文してみたいです!
続いて、銀座5丁目付近まで来ました!
「EXITMELSA」(イグジットメルサ)があるあたりです。
「イグジットメルサ」って何?と思うのは私ぐらいでしょうか?小平周辺に引きこもってばかりではいけませんね。
もともとの「ニューメルサ」が平成27年(2015)に名称、ロゴ、テナントを一新したそうです。もう7年も前です。
中に入っているお店は、SeriaにPLAZA、ワークマン女子などと親しみのあるブランドばかりです。今の銀座はこのようなリーズナブルなお店と、高級ブランドのお店が共存しています。ひと昔前とはだいぶ変わりましたね。
では、明治のころの5丁目を見てみましょう。
前回の銀座通りでも書いておりますが、銀座には主要新聞社のほとんどが集中していました。
5丁目には、このように日報社(後の毎日新聞社)がありました。
そして、現在の4丁目和光のところに「朝野新聞社」が、三越のところに「東京曙新聞社」「江戸新聞社」などがありました。
特に、日報社の2階テラスでは、夜になると花ガスが灯されることがあり、その様子を描いた作品がこちらです。
今回は、新橋から銀座5丁目までをくらべてみました。いかがでしたか?
みなさま楽しいゴールデンウィークをお過ごしください♪
先ほどご紹介しました、ガスミュージアム企画展「鉄道と駅」展、ぜひ観に来てください♪
https://www.gasmuseum.jp/gallery/
次回はどこに行きましょうか?お楽しみに!
(くらべる探検隊1号 T.Y)
<参考文献>
・銀座公式ウェブサイト
・銀座-駅前商店街 第一号-
・TOKYO ART&LIVE CITYウェブサイト
・博品館TOYPARK HP
・資生堂HP
・資生堂パーラーHP
・港区HP
・旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 パンフレット
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