ガスミュージアム

OPEN

ガスミュージアムブログ

ガスミュージアムブログ

ガス灯を探しに行こう! 第11回 ~歴史の記憶と新たな息吹きをつむぐ~ 芝浦のガス灯<前編>

テーマ:     公開日:2022年10月28日

10月31日は「ガスの記念日」。
今から150年前の明治5(1872)年10月31日(新暦)に、横浜の馬車道通りにガス灯が灯り、日本のガス事業が産声を上げた日です。ガス灯は、鉄道などとともに、日本の文明開化の象徴として新しい都市の姿を形づくり、街を輝かせていきました。

今回のガス灯を探しに行こう!は、ガス事業150年を記念して、歴史の記憶と新たな息吹きが交わる街、「芝浦のガス灯」を2回シリーズでご紹介します。

実は芝浦は、今、都内で最も新しく、そして最も多くのガス灯が灯っている街なのです。
そして、この街は、ガス事業発展の歴史と深い関りのある場所でもあります。
歴史をひも解きながら、この街になぜガス灯が立つのか、その背景をご紹介していきたいと思います。

前編では、江戸から明治にかけての風光明媚な景勝地としての芝浦のヒストリーを、そして後編では、近代都市東京の港湾地区の要として発展した新しい街、芝浦の姿に迫ります。

お目当てのガス灯は、JR田町駅東口から徒歩5分、地区の再開発で生まれた芝浦公園と、公園に隣接する新芝運河沿い緑地に立つガス灯群です。その数、あわせて31灯。都内でこれだけ多くのガス灯が見られる場所は他にはなく、とても貴重で、美しいスポットです。

芝浦公園のガス灯

芝浦公園のガス灯 広場のゲートとしてガス灯が迎える

運河の水面や、公園や街路樹の緑。見上げれば湾岸都心のシンボルであるタワーマンションや最先端の超高層オフィスビル等がそびえる異次元の魅力をつむぐかのように、この街にはガス灯の温かな光があふれています。この光景は必見ですよ。

新芝運河沿いに建つガス灯

それでは、芝浦の歴史をたどってみましょう。
今や芝浦はオフィスや超高層マンションが建ち並ぶ湾岸都心ですが、江戸時代には、砂浜が美しく風光明媚な場所で、江戸前の魚が有名な小さな漁村でした。

「芝浦」という地名の沿革は、文明18(1486)年の「廻国雑記」という紀行に記載されたものが最初とされています。芝の村の海岸を意味する「芝の浦」から、芝浦に転じたようです。

江戸時代には、芝浦に「雑魚場(ざこば)」と呼ばれた魚市場があり、クロダイ、カレイ、ウナギ等の東京湾で採れた多種多様な魚介類が扱われていました。芝浦で採れた魚介類は「芝肴(しばざかな)」とも呼ばれ、なかでも代表的なのが「芝海老」です。美味ゆえに将軍にも献上されたそうです。芝肴は、まさに江戸前の生きのよい肴の代名詞となっていました。

明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通すると、芝浦の近辺は、新橋駅からもほど近く、風光明媚な土地の将来が注目されます。鉄道の線路沿いの海岸線に、温泉旅館や、魚問屋から転業した活魚料理の料亭・茶店が集まってきて、軒を連ねます。海水浴場、花火や潮干狩りなどの行楽地、花街としても賑わっていました。

芝浦の有名料亭だった「見晴亭」。左手には「海水浴」の看板のある建物が並ぶ。 
   新選東京名所図会 <明治33(1900)年>

海水浴場は明治11年開設で、日本で最初との説もあります。ちなみに当時の海水浴場は、病気療養や健康増進のために海水を沸かした湯につかる、というもので、海で泳ぐレジャーというわけではありませんでした。

東京新橋鉄道繁栄高輪遠景  歌川国政(四代)<明治6(1873)年 木版画>

こちらの錦絵には、新橋駅から南の方向、芝浦から高輪築堤を経て品川駅方面を眺望した風景が描かれています。
この絵のように、明治時代の芝浦は新橋駅からほど近くてきれいな海が広がる、とても利便性の高い景勝地だったことが伺えます。東京湾越しに房総半島が望め、鉄道線路の側の海岸線に建つ、海辺の料亭や旅館は高楼を構え、その眺望と新鮮な海鮮料理が売りでした。

新撰東京名所図会 芝

明治34年頃の地図をみると、新橋停車場からもほど近いことがわかります。
新橋と芝浦の中間のあたり、金杉橋の近くにある瓦斯会社は、東京のガス事業創設の地です。明治7年に操業を開始した瓦斯製造所がありました。明治7(1874)年12月18日、ここから、新橋停車場の駅前を経て銀座通りの京橋まで85基のガス灯を灯し、東京のガス事業が始まりました。

明治40年代はじめの芝浦の海岸  東京風景 明治44年発行

こちらの写真には、明治40年代はじめの海岸の様子が捉えられています。左端に品川駅がみえ、芝浦へ向かって弓なりに湾曲した砂浜が続いていることがわかります。写真中央が芝浦付近で、旅館や料亭、芸妓屋が海岸線に建ち並んでいます。右端に見える煙突から煙をたなびかせているのが、金杉橋の瓦斯製造所になります。

芝浦が現在のような港湾都市の姿に変わっていくきっかけとなったのは、明治後期にはじまった東京港の港湾整備計画からでした。
東京港への大型船の入港を可能にするため、明治39(1906)年から隅田川河口改良工事が始まり、東京港の浚渫(しゅんせつ)によって生じた土砂を利用して、明治40年代に芝浦の沖合埋め立てが進んでいきます。

つまり、この写真が撮られた直後から、芝浦沖合の埋め立てが始まっていったことになりますので、ここに残された風景は、江戸風情のある景勝地としての芝浦の最後の姿になりました。

明治44(1911)年には、埋立地に田町駅が開業し、現在の芝浦1丁目から4丁目のエリアまでが新たな湾岸の土地として生まれました。

その後、芝浦は近代港湾都市東京を担う街として、変貌を遂げていきます。
大都市東京を支える港湾の街としての芝浦の発展の歴史と、近年の再開発で誕生した最新の芝浦の街の姿、ガス灯の所縁については、<後編>でご紹介します。どうぞご期待ください。

担当【Y.A】

 

ホーム

 

サイトトップに戻る

最新の記事

テーマ別

アーカイブ